1921   大日本蹴技協会創立
1929   国際サッカー連盟(FIFA)に加盟
1936   ベルリン五輪にて、3−2でスウェーデンに勝利
1951   第1回アジア大会 3位入賞
1954   第5回ワールドカップ スイス大会 予選敗退
        AFC(アジア・サッカー連盟)創立、日本10月に加盟
1956   メルボルン五輪参加 1回戦敗退
1958   第6回ワールドカップ スウェーデン大会 予選不参加
1960   第7回ワールドカップ チリ大会 予選敗退
1964   東京五輪参加  ベスト8入り
1965   日本サッカーリーグ(JSL)開幕
1966   第8回ワールドカップ イングランド大会 予選不参加
1967   メキシコ五輪 東京で開催 日本首位で本大会出場権獲得
1968   メキシコ五輪参加  銅メダル獲得
1969   第9回ワールドカップ メキシコ大会 予選敗退
1973   第10回ワールドカップ 西ドイツ大会 予選敗退
1977   第11回ワールドカップ アルゼンチン大会 予選敗退
        日本人プロ一人目誕生
1979   日本女子サッカー連盟、正式に発足。
1980   第12回ワールドカップ スペイン大会 予選敗退
1984   ロサンゼルス五輪 予選敗退
1985   第13回ワールドカップ メキシコ大会予選突破したが本大会出場ならず。
1988   ソウル五輪 予選敗退
        日本オリンピック委員会(JOC)に加盟
1989   第14回ワールドカップ イタリア大会 予選敗退
        第10回アジアカップ(広島)開催 優勝
1993   第15回ワールドカップ アメリカ大会 予選敗退
        日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)開催
1994   第12回アジア大会開催(広島)開催 ベスト8入り
1997   第16回ワールドカップ フランス大会 初の本戦出場
1998   FIFAワールドカップ‘98出場
1999   Jリーグ1・2部制(J1・J2)導入 
2000   アジアカップ優勝  
         シドニー五輪参加 ベスト8入り


1873年(明治6年)、いまから約130年も前のこと。
日本人が生まれて初めてサッカーに出会ったそうです。
フットボール発祥の地、イングランドには、「フットボール・アソシエーション(FA)」
が設立され、統一ルールがつくられ10年が経過していました。
東京の築地の海軍兵学校というところに教師として来日していた英国海軍のA・L・ダグラス少佐
という人が生徒にサッカーを教え、それから20年以上たった1899年(明治32年)、
神戸の御影師範にようやく日本人だけの初サッカーチームができました。
師範学校でサッカーが取り入れられたことで、その後、教師となり
全国に散った卒業生がサッカーの普及と指導にあたるようになって、
サッカーは徐々に広まっていきました。
1921年(大正10年)、大日本蹴球協会が設立、その8年後(1929年、昭和4年)に
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟しました。日本が世界の舞台に出たのは、
1936年のベルリン・オリンピック。1回戦で優勝候補のスウェーデンと対戦、
3−2の逆転勝利を飾りました。日本サッカーの歴史に「ベルリンの奇跡」
として深く刻まれることになったのです。
1954年(昭和29年)、日本は初めてワールドカップ予選に出場。しかし、
韓国に2戦1分け1敗に終わり、決勝大会への出場権は得られませんでした。
それから10年後の1964年(昭和39年)、東京オリンピックでアルゼンチンに
逆転勝ちしてベスト8に進出、日本でのサッカーの存在がようやく表舞台に上がってきました。
この頃を境に、サッカー・相撲・野球以外のスポーツも、市民の間に
「観戦するスポーツ」となっていきました。
1965年(昭和40年)、初めての全国リーグ、日本サッカーリーグ( JSL )が設立。
これによって日本サッカーのレベルは大幅に上がり、1968年(昭和43年)の
メキシコ・オリンピックで「銅メダル獲得」という快挙を成し遂げたのです。
この感動と興奮が日本にサッカーブームをまき起こし、各地にサッカースクールや
サッカー少年団を誕生させました。
ところがこのブームは泡のように消えていってしまったのです。
1974年(昭和49年)、国際オリンピック委員会(IOC)は五輪憲章「第26条参加資格」から
「アマチュア」の文字を削除する決定を下し、1984年(昭和59年)のロサンゼルス
オリンピック以降、プロ選手の参加を認めることに決定。これを機に、
アマチュア至上主義だった日本のスポーツ界、特にサッカー界でプロ化への動きが
高まっていきました。
1986年(昭和61年)、日本サッカー協会は、ドイツでプロとして活躍していた
奥寺康彦選手の帰国と同時にプロ選手の登録(スペシャル・ライセンスプレーヤー制度)
を正式に認めることにし、その第1号として奥寺選手が登録されました。
また、国内で活躍していた選手では、当時の日産自動車サッカー部(横浜F・マリノスの前身)
の木村和司選手が登録しました。この2選手のプロ登録を機に、数年のうちに
多くの選手がプロとして登録し、次第にクラブのプロ化が意識されていったのです。
一方、同年、日本オリンピック委員会(当時は日本体育協会の組織下)も「アマチュア憲章」を
「スポーツ憲章」に改め、選手資格のカテゴリー(プロ、アマチュア)を各競技団体に
委ねる決定を下しました。こうして、日本のスポーツ界全体がプロ化への道を
模索するようになっていったのです。
1988年(昭和63年)、日本サッカーリーグは、リーグを盛り上げ、日本サッカーのレベルアップを図ろうと
「活性化委員会」を設置し検討を開始。そしてその議論から“プロリーグの設立”
という結論がもたらされました。翌年、活性化委員会からこの提案を受けた日本サッカー協会は、
あらたに「プロリーグ検討委員会」をつくり、具体的な取り組みへと乗り出しました。
プロリーグ検討委員会はリーグのプロ化を検討する中で、プロサッカーをつくるには
単にクラブを法人化し選手をプロにするだけではなく、ヨーロッパ、特に日本サッカーと
関わりの深かったドイツのスポーツクラブに見られるような、特定の地域に基盤を置き、
地域の人々、そして子供からトッププレーヤーまで一貫してサッカーができる
環境を作り上げようという構想を打ち出しました。
1990年、「参加団体の法人化」「ホームタウン制の確立」「スタジアムの確保」
「チーム組織の確立」「選手・指導者のライセンス」「分担金の拠出」などの正式な
プロリーグ参加条件が提示され、再び日本リーグの全クラブなどに対する参加可否の確認
(ヒアリング)が行われました。1991年1月には、「プロサッカーリーグ設立の経緯について」
というタイトルでプロ化に関する初の記者会見が開かれました。
その年の2月には、ついにプロサッカーリーグへの参加10団体を発表。
3月にはプロリーグ検討委員会が事実上解消され、プロリーグ設立準備室
(室長:川淵三郎氏)が開設されました。そして7月、日本初のプロサッカーリーグの正式名称が
「Jリーグ(正式名称:日本プロサッカーリーグ)」 に決定しました。
11月には、悲願の日本プロサッカーリーグ(通称:Jリーグ)が設立されました。
Jリーグの初代チェアマンには川淵三郎氏(現日本サッカー協会会長)が就任し、1992年5月、
「Jリーグプレスプレビュー」が開催され、Jリーグに参加する全10チームのプロフィールと
ユニフォームなどの全貌が明らかになりました。9月にはJリーグ開幕の前哨戦として、
日本初のプロリーグによるカップ戦である「Jリーグヤマザキナビスコカップ」が開催。
そして、1993年5月15日にJリーグが開幕し日本全土に旋風を巻き起こしました。
それも、数年ともたず、市民は代表戦にしか興味を示さなくなりました。
それでも、徐々にまた人々がスタジアムに集まりだし
去年のワールドカップで一気に盛り返しをはかりました。まだ少ししか熱は
冷めてはいませんが、またJ開幕数年後のように、いつ人々がスタジアムから
離れていくのか予想はつきませんが、次のアテネオリンピック、そして2006年
ドイツ・ワールドカップまではどうかこの熱気が冷めないことを祈る毎日です。



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